2012年12月17日 (月)

失われた10年(笑)。

アメリカ村の店を閉めてからなにをしてたか、とよくご質問を受けます。10年間、遊んでいたワケではなくて、ちゃんと働いていたんですよ。相方は薬剤師として薬局やドラッグストアーに勤めて一家をささえておりました。わたくしは、おもに主夫業とデザインや編集の仕事、それと工場にパートに出たりもしていました。もう、年金をもらうまでは、こんな感じでやり過ごすんかなあ、と思っていたのですが、ふたりとも、もういちど店をやりたいという気持ちが、なんとなく、ふつふつとわき上がってきました。そして準備をはじめたのが去年の秋口。いろいろとしんどいこともあるやろな、と覚悟はしていたのですが…。じっさい、この不景気の時代に店を続けていくのはそう容易なことではないと実感しましたし、年齢的にキツいと感じることも多々あります。でも、むかしのお客さんが訪ねてきてくださると、やっぱり再開したカイがあったなぁ、と感慨にひたっております。みなさま、これからもよろしくお願いします。

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デザイナー時代(笑)に制作した某企業CSRのためのイラスト。

2011年10月30日 (日)

楽天ちゃん秘話(笑)

店をはじめるまえのお話。南森町の小さな雑居ビルの狭い階段を3階まで上がっていくと、ダブが鳴り響きガラムの匂いがプンプンする怪しげな銅版画の工房がありました。工房は画家の飯田三代さんが主宰していて、屋号はOK MIYOといいました(そのころNYのSOHOに「OK HARRIS」ってギャラリーがあって、そこから三代さんが拝借したんでしょうな)。出入りしていた人々の顔ぶれからして、当時の大阪ではけっこうちょんがったスペースやったような気がします。そのころはまだ青年やったわたくしは、昼は本屋でバイトをしながら夜になるとOK MIYOへやってきて銅版画を制作していたのですが、ちょうどつれあいも銅版画を習いにきてたんです。それで、まあ、知り合いになったちゅうワケです‥。 彼女は初心者でしたから、小さな銅版画の習作をいくつか作ってました。ハッキリいうて稚拙な作品ばかりやったんですけど、そのなかに古い更紗のハギレの唐子をコピーして作った蔵書票があったんですわ。

で、この蔵書票が意外と評判がよくて(笑)とある雑誌から、読者への懸賞にしたいから何十枚か刷ってくれ、といわれたこともありました。それから、いろいろといきさつがあって、つれあいと食堂を始めることになって、中華食堂やから看板はあの唐子を使おうか、ということになりました。唐子が読んでた本を箸とドンブリに持ち替えさせてデザインしたら、店名やらメニューやら店の内装やらと、けっこうするするコンセプトがきまって‥。たぶん唐子が導いてくれたんでしょう(笑)。

Old batik

Exlibris

1985年3月、開店のお知らせ

Hagaki

 

開店の案内状です。なってないデザインで、ああ恥ずかしい…。文面も気取りすぎですわ(笑)。当時はパソコンなんてありませんから、大宝寺町仲之丁の雑居ビルにあった写植屋さんで写植を打ってもらってレイアウト用紙に貼り付けて、はがきにコピーしました。

住所は南区と東区が合併する以前の町名です。炭屋町は周防町筋を境に北と南に別れていました。なかなか雰囲気のある町名やったんですけどね。御堂筋と周防町筋の角の三菱銀行は石造りの古めかしい二階建てやったし「カメラの病院」という庭付きの写真屋さんもありました。南中学もまだ健在でした。あ、電話の局番も3桁やわ…。

2011年10月20日 (木)

師 山田泥庵

高校を出てから数年間、ぶらぶらとインドやアメリカを旅したり、絵を描いたり、でたらめな毎日を過ごしていました。21歳のとき、ついに観念して辻調理師学校の夜間部に入学し、昼間は飲食店でバイトしながら夜は料理の勉強をすることに。そんなとき、谷町にある茶房・伽奈泥庵の山田泥庵さんと出会いました。やがてバイト先は伽奈泥庵になり、山田さんからいろいろな教えを受けました。そのとき、自分の進むべき道がハッキリと見えてきたように思います。楽天食堂をはじめて10年目に山田さんは亡くなられました。そのときに、花形文化通信というフリーペーパーに山田さんへの追悼と自分が楽天食堂をはじめたイキサツを書き記しました。以下再録です。

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